何かを評価するっちゅうのは、いったいどういうことなんだろう。そもそも評価にはある基準が要るけれども、その基準とはなんじゃいということです。好評価を得られるモノは、数学の問題なら定義(突き詰めれば1+1=2)に基づいた正しい答えを可能なかぎり早く(最悪でも人生が終る前に途中まででも)求めることだろうし、物理ならそれなりの説得力(どれだけ他人にわかったフリをさせるか)を持つ論文の発表、プログラミングなら短く早く負荷のないソースが良いとされてるように思う。こー書いてると「時間」ちゅうのが第一の基準な気がしてきた。時間大事やからねぇ。んで、最近大学で教わってる一般教養の経済学は、まず全ての物事をお金で換算することから始まってるみたいなことを言ってた。言ってなくてもそう聞こえた。お金大事やからねぇ。

さて、時間もお金も、私の中では人生の「満足度」を増やすための道具という位置付けなのですが、でわでわこの満足度とはいかに。たこに。アワビ? ヒトのシアワセはその人が受けてきた教育におーっきく影響されると思うけど、社会という集団の中では幸せはある程度同じ方向のベクトルを持っとる必要があるのですよ。“よそ見”に釣られたくらい皆で同じ方向。ほら、他人の痛覚を刺激することを幸せとする(要するに暴力家)ような人間とは同じ空間に居たくないですし。価値観が全くちぐはぐではもー社会として成り立ってらんない。まぁ↑の授受を快感とする一部では需要があるのかもしれませんがそれはやっぱり現段階ではギザ十以下の割合であろうしでなくてもであってほしいし。また、該当者も周囲は自分と違うと認識していらっしゃることでしょう。こんな感じで、納得も理解もできないけど違いがあるのは知ってる、ならまだ良ーんです。DDRとDDR2両対応のマザボ、みたいな。超閑話休題。とにかく、本来価値観とは集団大多数の意見によって決定されるものであります、と言いたい。のかな。そこを基準(無限遠点の場合あり)として、どれだけ満たしているかを表すことを「評価」と言う、と。よし繋いだ。

疑問。じゃあなんで評価するのは大体専門家なんだと。アンタらいつの間にパンピーの代表者気取りなんだと。専門家が評価者たるには次のどっちかが成り立ってないといけない。「1.私の間違ってないハズの理論は当然皆の価値観に一致するハズ」「2.私と同じように教育を受けてきたハズの皆の価値観は当然私と同じハズ」 どっちも字面はともかく至極まともな意見であり、どっちにも考えていない人間は劇場版エヴァ碇シンジもビックリなくらい人間不信な暗いヤツでしょう。評価者に必要なのは自分の意見を周りに提示する自信なのですから*1。だがしかし、ここに最大の引っかかり。もう釣り針やら魚の小骨なんて目じゃありません。その引っかかり具合たるや歯に挟まったほうれん草に匹敵。スジ肉には負ける。自信たっぷりの評価者の意見はあたかも大多数の意見であるように思われます。皆であっち向いてホイに引っかかる社会では一部の例外を除き皆そっち向きます。ということは、基準を基に評価するはずなのに、評価を基準としてるのではなかろーか。多→1 が 1→多 になってるのかなと。「評価」と「評判」がごっちゃになってるような気がすると、そーゆーわけでござりまする。


で、その落とし穴にハマった野郎がここに一人。  orz
続きは次回。か それ以降に。

*1:「自信がない」と「人間不信」は別やろーと聞こえてきそうです