評2

まず訂正から。昨日は「経済学はお金を基準に〜」みたいなところから「お金は満足のための道具」って書きましたが、経済学は「満足度を金額で表す」ような学問なのかな。順番が逆。変な論法になってました。
では追加を。前回の「評」では理系の話が基になりましたが私が気になっているのは文についてです。でわでわ芸術ってのはどうやったら評価できるんだろう。例えば美術、つまり視覚的なものであれば、まぁリアリティってのは1つの基準としてあるでしょう。タイタニックすげーみたいな。また逆に非現実的なものの表現も評価されます。FFVIIACすげーとか。あるいはそのときの雰囲気にピッタリの画も評価されるべきです。ほのぼの萌えアニメ。美術ってのはギアガの大穴より奥深いものです。
しゃてところで。文学はそこにリアリティなんてモンは欠片も持ち合わせちゃあおりません。文字オンリー。ひゃくぱー脳内補完。だからこそ楽しめるシロモノなのですが、その自己完結性ゆえ感想は17つ以上にバラバラです。とはいっても、全く無秩序にバラバラになるわけでもありません。ある基準を満たしていれば良い作品だ、とは一概には言えませんが、良い作品は大抵ある基準を満たしていることでしょう。必要条件やら十分条件やらそーゆー意味で。ところは日本語圏を前提に考えますが、言語が同じということもあって思想はなんぼかは似たり寄ったりというか共通の概念はあるはずです。このあたりはかなり適当に書いてますが前述のとおり思想が全く違う人間とはなかなか空間を共にしにくいものですから。つまりそれなりに大勢が認めるある評価のための基準が存在するのです。そんでまあ、落とし穴。
ある評価者は己のジャスティスに従って評価することでしょう。そのジャスティスはまあ基準に準拠しとることでしょー。専門家で勉強家で巧みの業師とかならそのジャスティスは高レベルで万人に認められると思います。いろんなモノの結晶でしょうから。だがしかし。その高レベルでってのが私のような低レベルには困る。いと困る。不良が「優等生に何がわかるんだよ!」とかほざく気持ちがわかる気分。何かを判断するとき、こっちは信じたいわけですよ。エライ人の評価を。第3者の意見を。好奇心だけじゃ生きられなーい。前評判を知りたいのよ。そこで評価を鵜呑みにすると騙されたとまでは言わんでも納得できない結果に終っちゃうぞと。そーゆー知見が得られました、みたいな3日掛かりの日記。次回に続く。


と、ここまで書いたらもうお気づきでしょうが、要は地雷を踏んだことを他人のせいにしとるだけなのです。長文スミマセン。